金八先生のモデルになったこと
59号眼裏月にある「金八のモデルの一人となることもありて教員生活長し」の歌についての質問が生徒からあり、このことについては今まで書いたことがなかった。再任用も終わって履歴書等改めて書いて思い出したことなどあるので、今、ここに書いておきたい。昭和53年、初めて公立の高槻市立第七中学校で一年生の担任をした時のこと。僕のクラスに早崎陽子という生徒がいて、父親母親共に俳優さん。父親の早崎文司さんは星野事務所という所に所属しており、近藤正臣と同じで、財津一郎と仲が良い。文司さんとは親しくなり、何度か玉川橋団地の自宅によって色々話をしたり、シナリオを戴いたりした。ある時、金八という学園ドラマをやり、教頭の役をやるので、色々勉強したいので、授業を見せてほしいと頼まれた。それから二週間ほど、週に何日か教室の後ろで僕の授業を見るようになった。暫くして、金八先生が放映されたが、武田鉄矢の坂本金八先生は中学校の国語教師で当時の僕そっくりの仕草がたくさんあった。京都竜安寺境内大珠院で参禅していたので、その座禅姿などもあったので、さすがに恥ずかしくてすぐに観るのをやめたことを覚えている。金八先生がこんなに有名になるとは思っていなかったこともあって、恥ずかしい思いの方が強かった。流氷記59号眼裏月には、この歌に続いて「金八の教頭の役やりますと早崎文司も今はもうなき」「我が授業数日後ろで見ておりし後のドラマが評判となる」の歌がある。そ
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