この頃思うこと
思えば、この50年ほどの時間には恐ろしいほどの変化が起きてきた。当時はまだ田舎(父や母の実家)に行くと一家に一頭は牛が居たし、日常のトイレも汲み取り式、新聞紙を切ったものをクシャクシャにして拭くというものもあった。また、家には蚊帳もあった。東京オリンピックくらいから急速に変化があり、やがて大人になっていったが、それでも、僕が初めて勤めた職場の印刷はまだガリ版であったし、しばらくして導入されたコピーも湿式で、一枚をコピーするのに数分はかかった。それでも便利さを有り難く思ったし、今日のパソコンの発達やテレビがカラーになり、最近はハイビジョンのものが格安で手にいるようになっている。電卓など最初に買ったのが6万円ほどのものであった。今ではそれ以上の性能のものが百円ショップにある。まさに百円ショックである。このような空恐ろしいほどの変化に僕らはさらされてきた。
限りなく簡便で清潔になった生活様式と共に、当時バリケードだらけだった大学。その政治に対しての世界や思想もめまぐるしく変わった。米帝日帝という文字が看板やビラに氾濫し、アメリカを帝国主義のとんでもない国とし、今から振り返って考えてみると、中国や北朝鮮を理想とする思想が幅を利かせていた訳である。ハイジャックによるよど号の行き先が彼らの理想とする北朝鮮だったし、「アジア的優しさ持つカンボジア解放勢力のプノンペン解放は、武力解放の割には流血の跡がほとんど見られなかった。‥」 と現地でなく東京でこの記事を書いた某新聞の記事の実態はポルポト派による300万人もの犠牲者が実際にはあり、その実行者側から電話で聞いたことの記事であった。この記者は久米宏のニュースステーションにも出ていて今は故人になっているが、ポルポトは毛沢東の弟子である。その素描が好きで購入していた『平山郁夫チベット素描展』の型録の説明には日中友好協会教宣部長の肩書きを持つ人が「毛沢東がチベット族とチベットの各方面の発展にどんなに深い配慮をはらってくれたか、毛主席の革命路線、民族政策がなければ私の今日も、チベットの今日もなかったでしょう」と、毛沢東を誉め称えた解説のみが載っている。これも某新聞の1977年の発行だが、中国のチベット進出とその占拠で、その前年(1976年)までにチベット地域の人口600万人のうち、処刑死、餓死、戦闘や暴動死、拷問死、自殺などにより120万人、実にチベットの五分の一の人がこの革命路線、民族政策により殺され、死んでいたのである。今のマスコミもこの延長線上にあるのが怖い。また、かつての紅衛兵の吊し上げや、口に石を詰めて処刑した北朝鮮のような雰囲気が今も漂ってくるのが怖い。どんな決まり事でも、環境によっては違う結論や価値観が支配してしまうものである。『どうにでも言える議論の応酬に少し厚かましい方が勝つ(どうにでも いえるぎろんの おうしゅうに すこしあつかま しいほうがかつ)』と、十年以上前に詠ったことがあるが、どんな会議でも、やはりそう思う。本当に真っ当なことならば、敢えて議論するまでもなく決まってしかるべきだからである。若者のかつて抱いていた幻想がガタガタに崩れていったことも曖昧なまま、今が過ぎていこうとしているのだ。赤軍派の総括の出来事も既に過去の事柄なのだが、そんな手法だけが通っていくと人々を恐怖の環境にさらしていくだけである。そんな危機を感じることも最近は多々ある。覚えたり考えたりするのもコンピューターがやってくれるので、人はますます浅薄になってきているように思えて仕方ない。
最近、鬱々として落ち込んでしまい逃れられない自分に気がつくことがある。その正体を考えているうちに、こんな文章を綴ってしまった。
暁の薄明に死をおもふことあり除外例なき死といへるもの 斎藤茂吉
(あかつきの はくめいにしを おもうことあり じょがいれいなき しといえるもの)
終りなき時に入らむに束の間の後前ありや有りてかなしむ 土屋文明
(おわりなき ときにいらんに つかのまの あとさきありや ありてかなしむ)
みづからに浄くなるべく落ち葉して立つらむ木々よ夜に思へば 佐藤佐太郎
(みずからに きよくなるべく おちばして たつらんきぎよ よわにおもえば)
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