浄土学研究会 第六回学術大会 研究発表原稿
先日、6月12日に行われた 浄土学研究会 第六回学術大会(大正大学巣鴨校舎10号館2階1021教室)での研究発表の原稿です。
『鎮西国師行状和讃』と聖光房弁長聖光上人について
川 添 英 一
鎮西国師行状和讃翻刻
浄土の宗門日の本に 開けて清き吉水の 正流にごさず酌む人は 鎮西聖光国師なり
諱は瓣長字をば 聖光房と申されて 浄土帰入のその後に みづから瓣阿と号せらる
應保二年の午の夏 五月六日の辰の刻 筑前香月則茂の 子息と生まれ玉ひにし
甫て七歳菩提寺の 妙法法師の弟子となり 白岩唯心明星の 常寂坊をも師とせらる
その性峻巍群をこえ 一を聞いては十を知る 十四のとしに戒を受け 天台宗を学ばるる
寿永二年の春はなほ 比叡山に登られて はじめは東塔南谷 観叡法橋の室に入り
後には證真法印の 堂に昇りて一宗の 秘蹟残らず稟承し 四明の奥義ぞ極めらる
建久元年ふるさとに 帰省ありては一山の 学頭職に補せられて 数多の大衆を領せらる
同く四年舎弟なる 三明房の頓滅に 無常のことわり身に沁みて 大道心を起こさるる
時に筑前明星寺 五重の塔の再興の 知識を唱え玉はれて 衆徒の懇請受けらるる
その塔造立ならざるに 閻魔の廳に影させば 豊後の礼聖これを見て 蘇生し財宝喜捨しける
冥顕かくも感動し 勸物みづから集まりて 雲をさそふる大塔の 三とせの内に成就せり
塔の本尊造らんと 都にのぼり京極の 康慶仏師の裏の庵 旅の臥所とし給へり
この時東山吉水に 円光大師ましまして 浄土の宗門開く日に 四輩の帰入盛なり
国師ひそかにおもへらく 故の證真法印の 法然房の知徳をば 深遠なりと称せらる
されどもいかで我が所解に 超過し給ふ事あらん 試みばやと推参の 器量の程をおもふべし
頃は建久八のとし 五月初めのこととなん 大師御年六十五 国師御とし三十六
大師国師のゆうを見て 出離の為には何事を 修行するやと問玉ふ 一言まことにかろからず
化他の為には塔を建て 自行の為には念仏と 国師の返答おごそかに 二利の要義を分別す
大師重ねての玉はく もし善導の意によれば 造像起塔は雑行よ 念仏の言葉いとひろし
汝は天台学者ゆえ 三重念仏をしへんと 止観要集善導の 所立細かに演たまふ
文義廣博智解深遠 崑崙山の峯あふぎ 瀛海の底のぞみ はてもかぎりもしればこそ
未の刻より子に至り 演説数刻におよびけり 六十小劫半日と おもひし昔ぞしのばるる
高峰心しずまりて 渇仰おもひいと深く 釈迦の説法聞く心地 善導教化に値ふ如し
凡夫解脱の捷径は 浄土の一門念仏の 要行なりと信解して 長く弟子とは成玉ふ
行儀全く師を学び しばしも座下をはなれずに 久しく宗教習学し 具に庭訓うけたまふ
翌る九年の午の春 選択集の付属あり 同年八月師命にて 豫州を化導せられける
翌春二月帰洛して 元久元の秋までに 都合六年首尾八年 大師に常随せられける
奉事の間は寸陰を 惜みて疏釈を研覈し 浄家の深奥極めてぞ 写瓶相承し玉へり
遂に学なり功をへて 元久元年八月に 帝都を辞して鎮西の 故郷に帰錫せられける
四十八寺の伽藍をば 筑肥の間に起立して 浄土一宗興するに 利益四遠に及びけり
安貞二年の冬のころ 肥後白川の往生院 二十有余の衆を結び 四十八日別行す
此時綬手印作らるる 善導大師まのあたり 来現あれば證明を えしとぞ歓喜したまへり
此ひとまきは門の 安心起行の秘鏡にて 光は月日ともろ共に あまねく天下ぞ照しける
彦山祐阿が夢の告 聖光坊の綬手印は 末世に光を放つぞと 感ぜし事の験あり
筑後の国の厨寺 千日別時のなかば過 高良山の大衆達 一同霊夢を感じける
悪計やめしのみならず 善信起こすぞ奇特なり 道場坤の隅 異香不断に薫じける
同国の山本郷 一精舎を草創し 最初は光明後にこそ 善導寺とは号されし
時の領主草野氏 夫妻諸共徳に帰し あまたの菜邑寄付すれば 大叢林とは成りにけり
ここにて吉水相承の 浄土の法門弘通して 臨命終の夕べまで 片時も懈怠し給はず
吉水帰投のその後は 六時の礼賛六巻の みだ経念佛六万遍 時をたがへず修し玉ふ
初夜の勤行終へて後、一時ばかりぞまどろまる その後は起居明るまで 高聲念佛たゆみなし
世の諺に閑居をば 高野粉河と申せども 寝覚の床にしかずとぞ 常に述懐し給へり
安心起行の肝要は 念死念仏の二点なり 息の出入りを待たぬ身ぞ 助けたまへと申さるる
御年六十九の秋は 一字三礼阿弥陀経 書写し給ひて臨終の 持経にこそはあて玉ふ
嘉禎二年の申九月 良忠上人入室し 翌年八月朔日に 傳法傳戒し給へり
吉水相承遺滴なく 付属し手づから筆染て 血脈したため相傳の 法をぞ弘通せしめらる
かくて衆僧に示さるる 我年西にかたぶけば しばし滅後の痴闇をば 思ふに肝腑安からず
幸なるかな我が法を 残らず然阿に付属せり 義道いかでか迷ふべき 法灯むしろ消えなんや
さればすなわち然阿こそ 辨阿が若くなれる也 我が弟子この後不審をば彼に対して決すべし
化縁の薪たきにしや 四條院の嘉禎三 酉の神無月よりぞ 不食増気し給へり
あくる睦月の十五日 来迎和讃を門人に 称揚せしめ聞たまひ 随喜の涙ぞ流さるる
浄土の聖衆は一天に 充満たまふとの玉へり おなじく廿三日にも 化佛来現示さるる
後の二月のち六日 竹崎尼公の受戒あり 廿七日丑の刻 異香しきりに薫じける
仰にいはく我むかし 法然上人値遇より 今に至りて四十年 心行片時も懈怠せず
天台大師は戒定慧 薫習するとの玉へり 辨阿はいはんや念仏の 薫習をやと唱ふなり
佛に誓約せし事の 一日違うも本意なしと まうせし程に今ははや 三六万遍唱へたり
堂中の釈迦如来 光放ちて辨阿をば てらし給うとの玉ひて 歓喜の涙にくれ給ふ
廿九日の日中禮 助音によりて勤めらる 未の刻に七條の 袈裟を着して伏し玉ふ
頭北面西五色の幅 金字の弥陀経合掌の 母指にはさみて念仏を 一時計り修し玉ふ
最後に殊に聲高く 光明遍照次の句に いたりたまはぬその時に ねぶるが如く寂に帰す
世壽古稀には七つ過ぎ 法臈六十に四つ余る 四輩の嘆きは稚子の 父母を失ふ如くなり
空には五色の雲そびえ 紫雲斜に庵をおほふ 道俗みづから群集し あまねくこの相拝見す
その後三日師の旧居 上妻郷の天福寺 紫雲かかるを村里の 人民拝して信を増す
その外奇瑞多ければ 一一あぐるにいとまなし しかのみならず 平生の 祥瑞霊異数おほし
善導大師まのあたり 影向来現し給へり 弥陀佛を拝瞻し 浄土の依正現前す
敬蓮社が夢の告げ 光明大師の再誕と またある人は弥陀仏の 垂跡なりと感じける
又ある人のゆめむらく 地持菩薩の権化なり 禮九が夢のうち 八度の再生つげらるる
まさしく大権應化して 選択本願念仏の 正意を末世に傳通し 衆生を済度し給へり
製作し玉ふ書籍には 相傳述奬臆説を 加へたまはぬ証拠とて 起請誓言厳重なり
況や国師かくばかり 奇瑞の往生遂給ふ 得益法門相かなふ 相承なんぞあやまらん
されば勢観上人は 先師の義道違へずに 正義傳持は鎮西の 聖光房ぞと申さるる
安居院の法印聖覚坊 二尊院の正信房 自義の誤りなき證に 国師をいつも挙げらるる
しかのみならず大師より 国師へたまはる誓状に 源空所存残りなく 御遍に申をはるなり
もし此外にあるならば 梵天帝釈四天王 證に仰ぐと御自筆に 書記して御判をすえ給ふ
また大師の御在世に 御往生のその後は 浄土法の不審をば たれに尋ねてしからんと
親盛入道とひければ 大師の御答聖光と 金光房こそ所存をば くはしく知るとの給へり
まさにしるべし鎮西は 浄土の宗門吉水の 正統嫡流たる事を 誰かはこれを誣べけん
ここに文政十の冬 天寵新に加はりて 大紹正宗国師とぞ 号を贈りたまひける
六百年の星霜を ふれど変らぬ吉水の 流れ盛んな四方の国 利益あまねき印かな
そもそも浄土吉水の 正流酌む事いとかたし 例えば佛の心印を 迦葉一人うるごとし
大師面受の門人の 知者達あまたましませど 正統傳持の其人の 稀なる盤しりぬべし
しかるに御滅後六百年 末の御法にあふわれら 清き流に浴するは 是みな国師の恩澤ぞ
常没流転の悪凡夫 たやすく弘誓の船に乗り 無為の宝諸に至れるは 盲浮木の幸ひか
後の世願ふ人々よ 賢き祖蹟を慕ひつつ もろき我身を忘れずに ひたすら御名を唱ふべし
流をくみてみなもとを 尋ぬる昔の教あり 恩波に浴して其徳に こたふる今の業ならん
南無阿弥陀仏 天保七年丙申 六月
沙門某甲印施
聖光房弁長鎮西上人について
聖光上人(鎮西上人とも呼ばれるが、ここでは聖光上人に統一)についての、出来うる限りの資料を集めてみたが、その生涯についても、また言動についてもまだまだ不明なところが多いと感じている。彼の根源にある思想の念死念仏、すなわち『八万法門は死の一字を説く。然らばすなはち、死を忘れざれば、八万法門を自然に心得たるにてある也』という言葉は、一言芳談に『聖光上人云く‥‥』としてあるが、この一言芳談という書物になければ、聖光上人のこの重要な言葉は、残らなかったかもしれないのである。一言芳談は吉田兼好の『徒然草九八段』に「尊きひじりの云ひ置きける事」として紹介され、その中の「遁世者は、なきにこと欠けぬやうを計りて過ぐる、最上のやうにてあるなり」は、古註(徒然草諸抄大成)に、「本書(一言芳談)の上(巻)に云く、聖光上人のいはく遁世者は何事もなきに事かけぬやうを思ひつけふるまひつけたるがよきなり、の句」とあり、聖光上人の言葉として紹介されるも、現存する『慶安版一言芳談抄』や『標註一言芳談抄』には「敬仏房いはく‥」とあり、聖光上人の言葉として載っている一言芳談の原本が出てこなければ、敬仏房の言葉とされていくような現状である。このようなことはこの聖光上人のことに限らず、(例えば、悪人正機説が法然上人から親鸞上人のものになっていったように)あることで、しっかりと目を凝らして見据えることがなければ、事実すら自然にねじ曲げられて、真実から限りなく離れていくことになる。かろうじて、このような古註により、一言芳談の原本の存在があるらしいと推測されるが(旧注はすべて聖光上人〈『徒然草諸注集成』田辺爵三一八頁〉)、時の移り変わりの目まぐるしい今こそ、このような起死回生の機会すらなくなる可能性も大きく、我々がやらねばならぬことが山積していることを思い知らされる。
かろうじて現存する二種の一言芳談もそうだが、私が昨年(平成二一年)に入手した『鎮西国師行状和讃』も天保七年刊の木版の和本である。木版は当時の出版の技術で、版木ゆえにある程度の部数が出回っていたものと思われるが、私が入手して梶村昇先生や吉祥寺の青柳俊文住職に問い合わせてみると、初めて見たとの御返事が帰ってきた。青柳英珊師の『鎮西上人』(昭和五三年改訂版)の七四頁には、行誡上人の『鎮西国師行状和讃』とあるので、福田行誡上人の手になるものかと理解したが、福田行誡上人は文化三年(一八〇六)のお生まれなので、天保七年(一八三六)以前に書かれたとすれば、少し若すぎるのではないかとも思う。ただ、言葉の格調の高さ、過不足のない内容からいって、誰にでも出来るというものではなく、やはり福田行誡上人をおいて他にないのではとも思う。私事になるが、私の歌人としての出発も十代後半だったし、歌心などの感性は、学んで学びきれるものではない。言葉の言い回しの巧みさやその自ずから持つ品格には天性の資質を感じさせるものがある。ちなみに仏教文化研究第二九号阿川文正師の『聖光上人の諸伝記について』にも『鎮西国師行状和讃』の記述はない。この『鎮西国師行状和讃』が再び世に広まることを強く望む次第である。
私は平成二十年までは、亡き父が総代を務めていた浄土真宗本願寺派の門徒だった。さまざまな経緯から青柳住職に惹かれて、実家(北九州市八幡西区塔野)の近くの吉祥寺の門徒になり、父母の遺骨は知恩院宝佛殿に納めて、浄土宗門徒になったが、それまで全く聖光上人については知らなかった。父の書作品集を出版する関係から、父が生前に書いていた石碑の一つが白岩寺境内にあり、白岩寺について調べているうち吉祥寺のことと聖光上人の存在を知ることになった。そんな訳で、まだこの研究から日が浅く、とんでもない間違いもたくさんあると思われる、その点は浅学のため故なのでお許し願いたい。ただ、本願寺派であったときも、自宅の仏壇の中の像は、親鸞上人、蓮如上人の順でなく法然上人、親鸞上人でゆくべきだと思っていたし、弟子一人も持たずと言って孤独であった親鸞上人についても思うところがあった。その親鸞上人の先輩にあたる聖光上人がこんなに身近なところに出生していたのすら知らなかったというのが今となっては不思議である。
聖光上人誕生の吉祥寺を見下ろすように、標高九百米の福智山がある。福智山は白凰元年英彦山修験の流れをくむ釈教順の開山した英彦山修験道行場の一つで、僧坊十二坊を数え、修験の行が盛んであったとのこと。南の向かいにある英彦山と共に法螺貝の響きを争った「両貝権現」の伝説や、慶長年間、黒田節にもなった豪将、母里太兵衛が福智山は富士山よりも高いと自慢したという話(『福岡の民話第二集』一九七七年未来社刊)も伝わるほどの、美しい山容である。さらにその山続きの鷹取山には山城があり、当時は今とは大分様相が違っていて、吉祥寺のすぐ近くにある白岩寺は伝教大師開祖になり、当時は二五坊もある大寺で、福智山との関わりも深かったのではないかと思われる。上人は唯心法師から天台止観、一乗を学んだが、福智山への信仰や神気を蓄え養うための登山もあり、後の英彦山への千日参りへと繋がったのではないか。天台宗での山への信仰やその繋がりからいっても、研究の余地があると思っている。
明星寺時代の上人については、近くの穂波町にはさまざまな伝説がある。(『郷土のものがたり』福岡県総務部広報課昭和六三年刊)英彦山への千日参りの度に松の木を植えたことで日数原から彼岸原の地名になったこと(青柳英珊『筑紫路の旅』昭和十一年知恩院刊には掲載)、道筋の若者達が上人を怪しいものと狙って矢を放ち、ことごとく上人のすぐ後ろで地面に落ちたことで、中矢や寿命の地名が出来たことなど、英珊師『鎮西上人』に詳しく、また、やや違った形で採り上げられていたりした話もある。彼が法然上人と出逢い浄土宗二祖となる前の話など、天台宗の高僧としても、九州では弘法大師以来の人気と実力を兼ね備えていたのではないか。その点、法然上人に出会ってからの彼は、何かに遠慮しているのではと見られるくらい地味に感じられる点が折々に見受けられる。吉祥寺腹帯阿弥陀仏像を始め、英彦山に伝わる十六羅漢像など、彼の仏師としての才能も、念仏以外は雑行とされる教義等の陰に隠れていたのではと残念に思われることもある。
彼が京都で仏師康慶別宅から法然の許へ通ったという、現在聖光寺京都四条綾小路の地は、康慶運慶関係の書物には書かれていない。七条仏所が仕事場として書かれているのみである。また、康慶の没年については不明であるが、例えば田中萬宗氏(『運慶』昭和二三年芸草堂刊)は元久元年七月廿九日ではないか、と言い、聖光上人が元久元年八月まで康慶別宅にいたとすれば、八月時点では康慶は生きていたということになることは何も伝わっていないようである。これら運慶関係の著者の見解では、ほぼ運慶の生まれた年は一致しており、仁平元年(一一五一)が最も多く(田中萬宗氏、丸尾彰三郎氏〔大佛師運慶、昭和十三年文部省刊〕、山本勉氏など)、長寛二年(一一六四)の蓮華王院本堂(三十三間堂)千体千手観音像の運慶作を信じたい小林剛氏は『佛師運慶の研究』(昭和二九年奈良国立文化財研究所刊)で、久安五年(一一四九)生まれを推察するくらいである。青柳英珊『鎮西上人』には、康慶仏師が、聖光上人に対して、「ご上人さま」と敬語で語ったように書かれているが、当時既に法眼という地位にあり、興福寺南円堂造像御衣木式においても摂政九条兼実に対して御衣木(用材)の位置や方向について制作者の立場から堂々と意見を申し上げ兼実に「余、此の言に従う」(『玉葉』文治四年六月十八日)と言わせるほどの見識と自信を持っており、法然上人からも『仏像を観ずとも、運慶・康慶がつくりたる仏ほどだにも、観じあらはすべからず‥』と言われている人が、息子の運慶より更に十歳以上も若い聖光に「ご上人さま」という筈もなく、天台の教義にも詳しかった聖光上人に対して、もっと温かく親しい接し方をしていたのではないかと考えられる。康慶工房も兼ねていた宅に、運慶、快慶、湛慶なども出入りしていたのだろうか、などと想像を逞しくすることが出来る。成田俊治師は仏教文化研究第三十号『初期浄土宗教団と聖光上人』に「聖光が康慶から技術を教わったということは可能性は薄く、むしろ地理的にも京都仏所系統の仏師に指導を受けたとみる方が妥当ではなかろうか。」と述べているが、建久八年(一一九七)には東寺講堂の諸像の修理をしているし、建久末年(一一九八)には東寺南大門仁王像を造っていて、当時の造仏の技術はその殆どを工房で造ってから現場で組み合わせるという寄せ木の技法が行われており、あの大仏でさえ、「先ずはじめに雛形としての十分の一の四尺像が造られ」(小林剛・佛師運慶の研究)、それから、大きな本尊を造るという技法であったとされ、「この頃における康慶や運慶の地位や名声などからすると、これは全くの憶説であるが、おそらく大仏像の頭部その他の原型を造ったのではないかと想像される。」(同)とすら言わせている康慶、その工房には康慶の許で運慶、快慶、湛慶などの仕事を聖光がじっと見ているというような想像に夢を膨らませていたい。下の二つの像は聖光上人と運慶仏師の像である。こうして二つ並べてみると、二人が無関係であったとはとても言えない気持ちになる。
聖光上人と同年齢(共に一一六二年生まれ)の藤原定家は家司として九条兼実に仕えていたが、聖光上人に対しての記述はなく、それどころか、彼の日記『明月記』には、歌道以外の諸芸術についての感想なり、批判なりもない、周辺に似絵の名人隆信がいたり、東大寺総供養のとき運慶快慶らの金剛力士の完成を見ている筈だが、それさえも記していないと『定家明月記私抄続編』で堀田善衛を嘆かせている。その定家が九条兼実宅に訪れた聖覚法印のことを日記に頻繁に書いている。この聖覚法印は、聖光上人との繋がりがあるだけでなく、親鸞上人も彼を尊敬し、彼の『唯信抄』を写したりしている。藤枝昌道師の『聖覚法印の研究』(昭和七年顕真学苑出版部刊)によれば、聖覚法印は寶地房證真の門下(『天台明匠記』『天台宗脈譜』)であったということであり、一一六七年生まれでもあり、聖光上人を證真門下の先輩として、親しくしていたことは想像できる。ただ、明月記での記述や古今著聞集の記述を見ても、聖覚は法然上人を尊敬しているものの、門下にはならなかったのではないかと見られている。「後鳥羽院聖覚法印に一念多念の義を尋ね給ふ事」や「後高倉院七々日忌の御仏事に聖覚法印御追善の文を唱する事」を見ても、むしろ法然上人よりも朝廷に重用されていたことが分かる。後鳥羽院に「行をば多念にとり、信をば一念にとるべきなり」と応えた冷静な目を持ち、定家に「聖覚僧都の弁舌、聞く者涙を拭ふ。」(『明月記』建保元年正月廿六日)と書かせたほどの弁舌の名手でもあった。文章も巧みで、天台僧でありながら、法然の専修念仏の強い信者でもあった聖覚は、平家物語の思想にも合致するところが多く、梅原猛先生に「勘として『平家物語』は聖覚の周辺から生まれてきたのではないかと思う。」(『法然の哀しみ』第九章「法灯を継ぐもの」)とまで言わせているほどの才人である。關山和夫師は「私は平曲を説教の一変形と見ているのであるが、そのように考えるならば、『平家物語』も法然上人の浄土教信仰を背景にした唱道文学の色彩をもっていると見てもよいであろう。」(「『平家物語』に見る浄土教と源智上人の立場」三上人研究昭和六二年刊四五頁)と言い、「安居院流説教の基礎がほとんど聖覚法印によって作られ(略)かの有名な『平家物語』冒頭の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり云々」という美文が安居院流説教の名調子に発していることは間違いないであろう。」とまで言っている。
京の都にいる聖覚法印と九条兼実、蓮生房熊谷直実との繋がり、信濃の善光寺に参って後の生仏法師、筑後善導寺に行くまでの、平家滅亡の道筋をたどる旅は、徒然草二二六段にある信濃入道、慈鎮和尚、生仏、山門、九郎判官‥とその言葉の流れも微妙に合致しているところがある。現実に起こった諸行無常の出来事とそれを経験したものの実話は、それを聴くあらゆる階層の人々の心を浄土への憧れへと駆り立ててくれるものでもある。そんな魅力が、浄土宗成立期にはあるような気がする。浄土宗成立期の過程に立つ聖光上人の存在と生きざまは、まだまだ未来を孕み、研究していく余地があるような気がしてならない。
『八万法門は死の一字を説く。然らばすなはち、死を忘れざれば、八万法門を自然に心得たるにてある也』という聖光上人の言葉は、八万法門、即ち浄土宗に限らぬ、あらゆる宗教の基本を見事に言い当てている。浄土真宗、禅宗、日蓮宗、キリスト教、イスラム教‥‥と、あらゆる宗教の基は『死を見つめる』ことであると説いているのである。書店を覗いても、法然に関する書より親鸞の方が多く、その悪人正機説によって法然より優位、また進化を主張している書がまだ多い現在、聖光も誤解の只中にあるような気がする。ここにいるものだけ、この思想だけが浄土に到達するといった偏狭な思想は現在には通用しないし、万人が死からは免れ得ない古からの真実を見つめてきた聖光上人の念死念仏の思想をもう一度見直して、再び世に問う時代が来ているのかもしれない。
まだ浅学の立場から、聖光上人の教義などには出来るだけ触れないように論じたつもりである。徒然草に採り上げられた一言芳談の原本の存在など、新たな発見のあることを期待したい。幾つもある浄土宗の寺院の庫裡や、壁の中、土の中などにそんな貴重な言葉が眠っているのかもしれないと思う。
聖光上人を学ぶにあたって集めた書籍等を一部列挙しておく。(順不同)
◇『鎮西上人』青柳英珊昭和五三年改訂三版浄土宗九州地方教化センター『鎮西上人』昭和三六年改訂二版鎮西上人鑚賛仰会 ◇『 鎮西上人鑚仰』望月信亨椎尾辨匡昭和十年発行鎮西上人鑚仰会 ◇『浄土仏教の思想十弁長寛』梶村昇福原善二〇〇〇年二刷講談社 ◇『聖光と良忠』梶村昇平成二十年浄土宗出版 ◇『法然上人とお弟子たち』梶村昇平成十年浄土宗 ◇『鎮西国師行状和讃』沙門某天保七年木版 ◇『鎮西大紹正宗国師繪詞傳』天明六年華頂山蔵版 ◇『二祖鎮西上人』久松鏆瑞昭和八年総本山知恩院 ◇『鎮西上人御旧跡巡拝筑紫路の旅』青柳英珊昭和十一年知恩院 ◇『英彦山における鎮西上人御霊蹟』増谷雄鳳昭和五四年善導寺内鎮西上人奉讃会 ◇『鎮西聖光上人の教學』坂田良弘昭和五九年国書刊行会 ◇『仏教文化研究第二九号聖光上人特集』昭和五九年浄土宗教学研究所 ◇『仏教文化研究第三十号聖光上人特集』昭和六十年浄土宗教学研究所 ◇『摩訶衍第一二号鎮西上人特集号』昭和三年仏教専門学校出版部 ◇『三上人御繪傳』昭和一二年知恩院 ◇『三上人研究』昭和六二年三上人御遠忌記念出版会 ◇『聖光上人御法語』平成二年鎮西研究所 ◇『聖光上人その生涯と教え』藤堂俊章平成四年鎮西研究所 ◇『鎮西聖光上人霊跡巡拝の栞』浄土宗青年会福岡支部平成元年 ◇『鎮西教学成立の歴史的背景』花田玄道平成八年大本山善導寺 ◇『聖光上人』平成十八年浄土宗出版 ◇『大本山善導寺―その歴史と宝物』九州歴史資料館平成八年大本山善導寺 ◇『筑後大本山善導寺歴史資料調査目録』九州歴史資料館 ◇『一言芳談』一九九八年ちくま学芸文庫 ◇『標註増補一言芳談鈔』元禄二年木版 ◇『標註増補一言芳談抄』森下二郎校訂一九九五年岩波文庫 ◇『假名法語集』日本古典文学大系八三昭和五一年岩波書店 ◇『死のエピグラム「一言芳談」を読む』吉本隆明大橋俊雄一九九六年春秋社 ◇岩波文庫『徒然草』一九八五年版 ◇講談社学術文庫『徒然草全訳注』昭和五七年 ◇『徒然草全釈』松尾聡清水書院一九八九年 ◇新潮日本古典集成『徒然草』一九八三年新潮社 ◇日本古典文学大系方丈記 徒然草 岩波書店 ◇『徒然草諸抄大成』木版貞享五年刊 ◇国文注釈全書第一二巻『徒然草諸抄大成』國學院大學刊昭和四三年再版すみや書房 ◇『徒然草諸注集成』田辺爵昭和五四年右文書院 ◇『福岡の民話』第一集第二集未来社 ◇『郷土のものがたり』昭和六三年版昭和五七年版二冊福岡県総務部広報室 ◇『肥後の民話と伝説』熊本史談会平成元年葦書房 ◇『佛師運慶の研究』小林剛昭和二九年奈良国立文化財研究所 ◇『大佛師運慶』丸尾彰三郎昭和十八年文部省教学局◇『運慶』田中萬宗昭和二三年芸艸堂 ◇『運慶・快慶とその弟子たち』平成六年奈良国立博物館◇『興福寺国宝展―南円堂平成大修理落慶記念』平成九年東京国立博物館 ◇『芸術新潮仏師西村公朝が語る運慶の運命』一九九二年二月号 ◇『運慶流』二〇〇八年佐賀県立美術館山口県立美術館 ◇『国宝の美』二七運慶大日如来坐像二八東大寺南大門金剛力士立像二九湛慶千手観音坐像二〇一〇年週刊朝日百科 ◇國華千号千一号『鎌倉彫刻特輯』上下昭和五二年朝日新聞社 ◇『サライの仏像の見方』二〇一〇年小学館 ◇『仏像を見る眼―日本仏像彫刻史』東尾禮二一九九九年自費出版 ◇『仏像』久野健昭和四六年学生社 ◇『玉葉』藤原兼実昭和四六年名著刊行会 ◇『訓読明月記』藤原定家今川文雄訳昭和五二年河出書房新社 ◇『明月記人名索引』今川文雄昭和四七年初音書房 ◇『定家明月記私抄』『続編』堀田善衛二〇〇六年ちくま学芸文庫 ◇『吾妻鏡』龍肅注一九九七年岩波文庫 ◇『吾妻鏡必携』二〇〇九年吉川弘文館 ◇『聖覚法印の研究』藤枝昌道昭和七年顕學苑 ◇『古今著聞集』日本古典文学大系八四昭和四九年岩波書店 ◇『古今著聞集』上下巻昭和一五年岩波文庫 ◇『愚管抄』日本古典文学大系八六昭和四五年岩波書店 ◇『沙石集』日本古典文学大系八五昭和四六年岩波書店 ◇『平家物語』上下巻平成七年角川日本古典文庫 ◇『平家物語の形成』水原一昭和四六年加藤中道館 ◇『平家物語の世界』村井康彦昭和四八年徳間書店 ◇『たそがれ法師の物語・平家物語誕生異聞』飯野山治一九八一年作品社 ◇原文・頭注・評釈・研究『平家物語』永積安明昭和十六年日本評論社 ◇『法然の哀しみ』上下巻梅原猛二〇〇四年小学館文庫 ◇『法然一五歳の闇』上下巻梅原猛平成十八年角川ソフィア文庫 ◇『熊谷直実―法然上人をめぐる関東武者一』梶村昇一九九一年東方出版 ◇『津戸三郎為守―法然上人をめぐる関東武者三』梶村昇二〇〇〇年東方出版 『宇都宮一族―法然上人をめぐる関東武者二』梶村昇一九九二年東方出版 ◇『法然』梶村昇昭和四五年角川選書 ◇『法然上人絵伝』上下巻大橋俊雄校注二〇〇三年岩波文庫 ◇『法然上人絵詞(妙定寺本)中井真孝編平成廿年思文閣 ◇『南無阿弥陀仏の論理』梶村昇昭和六十年毎日新聞社 ◇『悪人正機説』梶村昇一九九二年大東出版◇『法然の言葉だった「善人なをもて往生をとぐいはんや悪人をや」』梶村昇一九九九年大東出版◇『法然のことば』梶村昇昭和六二年雄山閣 ◇『法然の手紙』石丸晶子編訳一九九一年人文書院 ◇『法然入門』大橋俊雄一九八九年春秋社 ◇『法然』日本名僧論集第六巻昭和五七年吉川弘文館 ◇『ひろさちやの「法然」を読む』ひろさちや平成十九年佼正出版社 ◇日本人のこころの言葉『法然』藤本淨彦二〇一〇年創元社 ◇『日本宗教史年表』昭和四九年評論社 ◇『日本史年表増補版』歴史学研究会一九九四年岩波書店 ◇体系日本史叢書流通史一、二 生活史一、二、三 宗教史 美術史 芸能史 交通史 山川出版社 ◇『歴史と古道―歩いて学ぶ中世史』戸田芳実一九九二年人文書院 ◇『中世史ハンドブック』永原慶二他昭和四八年近藤出版社 ◇『中世の愛と隷属』『姿としぐさの中世史』一九八六平凡社 ◇讀群書類従第九輯上傳部第二八輯下釋家部完成会
私事で恐縮だが、この二年間、中学校教諭という職業のかたわら、聖光上人について、またその中世の時代について出来る限りの範囲で調べてきた。それでも限りなくその道は深く広く私の前に横たわっていて、今はただ溜息をつくばかりである。今年で停年を迎え、これまでよりもっと自由な時間も持つことが出来るが、一方職を失うなかで、経済的にもこれまでのような自由な研究も出来なくなるのではないかという危惧もある。出来るならば、寿命を全うするまで聖光上人のことを中心にもっと研究を重ねていきたいと思っているので何か良い智慧をお貸し願いたい。学生時代には東大寺観音堂上司海雲師の許で法華堂(三月堂)に勤め、二十代には竜安寺内塔頭大珠院で盛永宗興師の許参禅を三年間経験したことがある。これらのことも今にして繋がっていたのだと有り難く思う次第である。
| 固定リンク
最近のコメント