徒然草から―歴史は事実を変えることもあるのでご用心
梶村昇先生はその著書『悪人正機説』『法然の言葉だった「善人なをもて往生をとぐいはんや悪人をや」』で、この悪人正機説にもなった言葉は、その『醍醐本』等により法然の言葉であることを何度も強調したが、既に日本史の教科書等で、親鸞の言葉とあり、今でも訂正する気配はないごとし、さらに三国連太郎の『親鸞への道』等でも、これらにより親鸞は法然から進化したごとくに語られている。かように歴史とは恐ろしいものだという思いを持つことが多くなっている。二年前まで、父が総代などを務めていた浄土真宗本願寺の寺から、聖光房弁長すなわち聖光上人の生まれた吉祥寺の檀家となり、浄土宗のことを勉強するようになったのもその切っ掛けで、徒然草の読み方も変わってきた。
さて、徒然草 第九十八段〔原文〕
尊きひじりの言ひ置きける事を書き付けて、一言芳談とかや名づけたる草紙を見侍りしに、心に合ひて覚えし事ども。
一、 しやせまし、せずやあらましと思ふ事は、おほようは、せぬはよきなり。①
一、 後世を思はん者は、糂汰瓶一つも持つまじきことなり。持経・本尊に至るまで、よき物を持つ、よしなき事なり。②
一、 遁世者は、なきにことかけぬやうを計ひて過ぐる、最上のやうにてあるなり。③
一、 上臈は下臈に成り、智者は愚者に成り、徳人は貧に成り、能ある人は無能に成るべきなり。④
一、 仏道を願ふといふは、別の事なし。暇ある身になりて、世の事を心にかけぬを、第一の道とす。⑤
この外もありし事ども、覚えず。
〔現代語訳 インターネットから引用〕
尊敬できる坊さんの言い残した名言を文章にした、一言芳談《いちごんほうだん》と名付けた本を読んでみた、その中で心に残った言葉を挙げてみよう。
一・してみようか、やめるべきかと悩んだら、大方はしないほうが良い。
一・極楽往生を願うなら、糠味味噌桶《ぬかみそおけ》の一つだろうと持つべきではない。お経、仏像だろうと、良い物を持つのは、やめるべきだ。
一・世捨て人は、何もなくても不自由しない方法を考えながら過ごすのが、最上の暮らしかたである。
一・身分の高い人は、身分の低い気持ちになれ。頭の良い人は、バカの気持ちになれ。金持ちは、貧乏人の気持ちになれ。能力のある人は、無能の気持ちになれ。
一・仏道を願うのは、特別なことでない。暇になる身になって、世の中の事を一切考えないのを、第一の方法とするべきだ。
この他にもあった気がするが、忘れた。
で、この原文の解説に、岩波文庫の西尾実・安良岡康作校注では、③のところで[「トンゼイシャ。剃髪して現世を捨てた人」。以下は聖光上人、もしくは敬仏房の話。]とあり、インターネットでの④の注では[四は、聖光上人、もしくは敬仏房の言葉。]とあり、そんなことから、一言芳談について、集め得る限りのものを集めて確かめてみた。(一言芳談小西甚一校注ちくま学芸文庫・標注一言芳談抄森下二郎校訂岩波文庫・死のエピグラム一言法談を読む吉本隆明解説大橋俊雄訳・仮名法語集岩波書店日本古典文学大系83)さらに元禄二年刊の木版である『標注増補一言芳談抄』をも集めた。お金のかかったこと掛かったこと。まあ、性分だから仕方ないが、徒然草に載っている言葉が聖光上人であるという確証がどこにも得られなかった。
③の「遁世者は、なきにことかけぬやうを計ひて過ぐる、最上のやうにてあるなり。」は一言芳談には敬佛房云、と書いている項の後、五つ目の「又云、」の後に「遁世者はなに事もなきに、事欠けぬやうをおもひつけ、ふるまひつけたるがよきなり」と書かれており、この流れでは敬佛房云ということになって、現在の殆どの評釈では敬佛房の言葉とされて来ている。また、④の『上臈は下臈に成り、智者は愚者に成り、徳人は貧に成り、能ある人は無能に成るべきなり。』は、松蔭の顕性房云、の六つ目の「又云、」の後、「むかしは後世をおもふ者は、上臈は下臈になり、智者は愚者に成り、徳人は貧人に成り、能ある人は無能にこそ成しが‥‥」とあり、顕性房の言葉だと考えざるを得ない。一言法談では、明確に○○云、と書かれているものもあるが、又云、がやたら多く、途中で違う人のものになってしまうこともあるのかもしれないと思った。
ということで、徒然草の最も古い注釈書『徒然草諸抄大成』貞享五年刊の木版のものを手に入れる。貞享五年といえば元禄元年と重なる年のこと。今残っている一言芳談よりも古い、原本かそれに近いものを見ての注釈の筈。そこには③の注釈に、聖光上人の言葉とあり、その上にははっきりと「本書(一言芳談)の上(巻)に云く、聖光上人のいはく遁世者は何事もなきに事かけぬやうを思ひつけふるまひつけたるがよきなり、の句(あり)」とあった。きっちりと本文に書いてある言葉を筆記しているので、一言芳談にきっちり欠いてあるということだ。とすると、現在残っている一言芳談は先ほど述べたような過程で、違う人の云ったことになっている訳だ。徒然草を書いた吉田兼好は、『聖光上人のいはく遁世者は何事もなきに事かけぬやうを思ひつけふるまひつけたるがよきなり』の文字を見て徒然草を書いている訳で、今の注釈書にもの申すべきことの一つ。これは法然の説いた悪人正機説がいつの間にか親鸞の説いたものになつているのと同じ。歴史は事実を変えることもあるという恐ろしさがある。
ついでに徒然草 第百十五段
宿河原といふ所にて、ぼろぼろ多く集りて、九品の念佛を申しけるに、外より入りくるぼろぼろの、「もしこの中(うち)に、いろをし坊と申すぼろやおはします」と尋ねければ、その中より、「いろをし、こゝに候。かく宣ふは誰(た)ぞ」と答ふれば、「しら梵字と申す者なり。おのれが師、なにがしと申しし人、東國にて、いろをしと申すぼろに殺されけりと承りしかば、その人に逢ひ奉りて、恨み申さばやと思ひて、尋ね申すなり」と言ふ。いろをし、「ゆゝしくも尋ねおはしたり。さる事はべりき。こゝにて對面したてまつらば、道場をけがし侍るべし。前の河原へ参り合はん。あなかしこ。わきざしたち、いづ方をも見つぎ給ふな。數多のわづらひにならば、佛事のさまたげに侍るべし」と言ひ定めて、二人河原に出であひて、心ゆくばかりに貫きあひて、共に死にけり。
ぼろぼろといふものは、昔はなかりけるにや。近き世に、梵論字(ぼろんじ)・梵字・漢字などいひける者、そのはじめなりけるとかや。世を捨てたるに似て、我執ふかく、佛道を願ふに似て、闘諍(とうじゃう)を事とす。放逸無慚のありさまなれども、死を輕くして、少しもなづまざる方(かた)のいさぎよく覺えて、人の語りしまゝに書きつけ侍るなり。
〔現代語訳〕
宿川原《しゅくがはら》という所で、ぼろぼろが集まり、九品《くほん》の念仏を唱えていたら、外から新たなぼろぼろがやってきて、「もし。こん中に、いろをし坊と名乗るぼろぼろはおられないか?」と尋ねたら、その中の一人が、「いろをしはここにおるぞ。かくいうあなたは、どこのどなたじゃ?」と聞いてきた。「しら梵字《ぼんじ》と申す。私の師匠は某と申すのだが、東国にていろをしと申すぼろぼろに殺されたと聞いた、その男に会いたい、そして恨みを晴らしたいと思い、尋ねに参った」と言う。いろをしは、「おう、よくぞ参られた。確かに、覚えのあることだ。だがこの場で決闘したなら、道場を血で汚すことになる。外にある河原にてやりましょうや。どうかみなさん、決闘の手助けはご遠慮願いますぞ。大勢の迷惑になってしまえば、仏事の差し支えになるでしょうからな」と話をつけて、二人は河原で立ち合って、存分に殺し合い、共に死んだのだった。
ぼろぼろとは物乞いをして諸国を歩く乞食僧を言うのだが、昔はそんな奴らは存在したのだろうか。近頃の、ぼろんじ、梵字《ぼんじ》、漢字《かんじ》と言う者が、その始まりだと聞いている。世捨て人のようで自分勝手に振る舞い、仏道を励みながらも喧嘩にあけくれている。わがままで、恥知らずなのだが、死を恐れない、生死のこだわりのない生き方は潔いと思えて、人の語るままにここに書き付けることにした。
この『宿河原』だが、茨木市宿河原町にある宿河原である。が、今では横浜にある宿河原になっているらしい。東国にある宿河原に来て「おのれが師、なにがしと申しし人、東國にて、いろをしと申すぼろに殺されけりと承りしかば、その人に逢ひ奉りて、恨み申さばやと思ひて、尋ね申すなり」はないであろう。東国から東国に来る道理がない。先の『徒然草諸抄大成』にも「宿河原 摂津の國にあり」とあり、その頭注の最後の部分に(…京都大佛の南にある妙安寺は虚無僧の本寺にて関西三十三箇國薦僧の支配をするなり達磨と普化和尚とを祖師としてこれをうやまふなり」とある。歴史なんて簡単に変えられていくものだと思う。確かに
正当化、保身の為の嘘に満ち幾多の事実変えられていく
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