運慶・康慶の生没年について
小林剛著『仏師運慶の研究』(昭和29年刊)によれば、運慶の生まれは久安五年(1149年)か久安六年(1150年)の生まれ。その死については、貞応二年(1223年)12月11日。丸尾彰三郎執筆『大仏師運慶』(昭和18年刊)によれば、彼の生まれたのは久安五年(1149年)。 田中万宗『運慶』(昭和23年刊)によれば仁平元年(1151年)頃の出生と推測し、その死については『日次記』に「六月二十九日、仏工運慶忌。法橋定朝六世の孫」と載せられてあり、彼の家では此の日を祥月命日として古来から回向し供養して来た、とある。さらに康慶の死については、東大寺南大門仁王像完成を見届けてからという彼の願望もあって、その翌年の元久元年(1204年)七月廿九日に歿したのではあるまいか、と推測している。
『法然上人絵傳(法然上人行状絵図)』第46によれば、(岩波文庫237頁)元久元年八月上旬、聖光房弁長が法然の吉水の禅室を辞して鎮西の旧里に帰ったとあるが、この、田中万宗氏の推測の元久元年七月廿九日というのが、その帰郷の準備と併せて、ぴったりと状況に一致するのではと考えられる。聖光房弁長と康慶との繋がりは、そのまま運慶や快慶、湛慶との繋がりを想起させられる。
とりあえず、今はこんなところで‥‥聖光房弁長の研究から始まったこの作業も、とんでもないところまで行きそうである。
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