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2010年3月14日 (日)

『仏師運慶の研究―小林剛―奈良国立文化財研究所学報 昭29』入手する。

 この書は日本全体でもあまり部数が無くて、例えば古書店小林書房の型録を覗くと68,250円  のものと  89,250円 のものとが二部。そんな高価なものであるが、たまたま、本の保存の状態が悪いというので、天牛書店で六千円で入手することが出来た。確かに本の箱も帯もカバーも無く、剥き出しの表紙は何かにぶち当てた跡があって、本としてはがらくたの部類に入るのだろう。しかし、中身は高価なものと変わりなく、本の内容を是非読んでみたい僕にとっては、これを手に入れたことは何よりの喜びである。この書に限らず、自分が買うと、後は全く無くなって二度と入手出来なくなるものもあり、少々高くてもその時に手に入れなければ強烈な後悔に見舞われることになる。
 ともあれ、康慶の別宅から法然の許に通った聖光房弁長(人名は敬称略)が運慶とも交流があったのではと思っている僕としては随分と得るものがあった。不詳とされている運慶の生年については1148年か1149年であること。聖光房弁長が1162年生まれなので、運慶の方がかなり年長である。仏師の位には法橋から法眼そしてその上が法印という位があり、それによっても色んな判断が出来ること。仕事場が基本的に京都にあったことなど、いろんなことが判ってきた。聖光房弁長が康慶宅にいたのが1197年から1204年まで。その間に東寺の講堂の諸像修理(1197~1198)、高野山不動堂脇侍二童子像と随従の八大童子像(1197)、東寺南大門仁王像(1198)、摂政近衛基通発願の白檀普賢像(1202)、神護寺講堂の大日如来と金剛菩薩像と不動明王像(1203)、快慶と協力して東大寺南大門の仁王像(1203)などの記述がある。これらが書いている寺の由来記や当時のことが伺える資料も銘記され、とても役にたつ資料である。さらにこの著者小林剛氏は「この頃における康慶や運慶の地位や名声などからすると、これは全くの憶測であるが、おそらく大仏像の頭部その他の原型を造ったのではないかと想像される」と述べ、雛型として十分の一の大きさの像を造ってから、その製作を行った過程など紹介されている。また運慶・快慶と併記されているのが現代の大方の考え方だが、資料系譜には快慶は康慶の弟子でなく運慶の弟子だと書かれていることなど色々と勉強になることばかりである。ともあれ、これらの資料と共に、藤原兼実の日記『玉葉』や、聖光房弁長と同年に生まれ、兼実に可愛がられた藤原定家の『明月記』や、吾妻鏡、増鏡などの資料もじっくりと読んでいく必要があり、まあ、頭の痛くなるほど。堀田善衛の『定家明月記私抄』を覗くと、建久七年六月十六日の明月記に定家が兼実から簡単に伊予の国の荘園の一部を給わった様子が描かれている。その後定家は伊予の国司になっている。聖光房弁長が法然からの要請で伊予に教化に行った経緯など、兼実に関わっていると考えられる。聖光房弁長については宗教上のことしか書かれたものがないので、いろんな可能性に溢れていると言える。そんな訳で資料集めに時間と金が掛かり過ぎて大変なのが今の状態だが、とても遣り甲斐がある。明月記や玉葉など漢文で書かれており、それを読むのも、何しろ素人なのでこれも頭の痛いこと。
 父と同年の梶村昇先生から温かい励ましのお手紙をいただくのもとても嬉しいこと。先生の『浄土仏教の思想10弁長』の御本もかなり高値になっていたが、入手した。後はしばらくは誰も手に入れられない、僕が最後の一人だったようだ。

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