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2010年2月28日 (日)

聖光上人のことなど

 3月の6日に知恩院で、27日に吉祥寺で父の三回忌を行います。知恩院は浄土宗の総本山、吉祥寺は聖光上人の誕生寺です。聖光上人は1197年(建久8年)五月に法然上人に出会い、上人に感化され、1199年には『選択集』を授けられ、「汝は法器である」と、やがて法然の後を継ぎ、浄土宗の二祖となっていきます。この、代を継ぐ様子は、既に法然が、自分を継ぐのはこの人であると確信を持っていた形跡があり、その迅速さは、恵果から真言宗を継いだ空海や、この聖光から浄土宗を継いで三祖となる良忠の事跡がよく似ています。正に「汝は法器である」と直ちに前任者には分かるのですね。ダライラマの継続にも似たものがあるようです。血統で繋がるものでないだけに、体から感じる直感のようなものの方が確かなのかもしれません。尚、親鸞の入室が1201年(建仁元年)で選択集授与が1205年(元久二年)四月。その三月には法然は聖光に丁寧な手紙を送って、聖光が法然の法をきっちりと伝えている旨、自らの筆で書いている。例えば日蓮が『一代五時図』で、法然の法統を継いだとして挙げたのは、隆寛、証空、聖光、長西、幸西、行空の六人。法然の死後166年後にやっと、親鸞の名が浮かび上がった次第で、長い間、この聖光こそが、法然の思想を継いだとされてきていた。いつの間にか、法然の説いた悪人正機説も親鸞のものになり、いつしか歴史の記述には法然から親鸞へと、という流れが当然とされてしまう。こんな流れに逆らって、今、僕が聖光のことを調べている訳です。先に書いた1197年から仏師康慶の別宅から法然の許に八年間通ったのですが、今は聖光寺となっている康慶別宅では、康慶の弟子達も多数おり、その仏を彫る光景が、鎮西上人絵詞伝の挿絵にも描かれています。運慶、快慶を初め、いろんな仏師も聖光(鎮西)上人とも交流のあったことが伺えます。法然と出会う前に既に高名な天台宗の僧侶でもあり、法然と出会う以前に、例えば1190年(建久元年)に吉祥寺、1192に善導寺(現在浄土宗大本山)の前身を既に建立していますし、1199年(正治元年)には土御門天皇に呼ばれて参内し鎮西禅師聖光上人大和尚と諡されたという。法然の片腕的な存在でもあり、この法然と共に会ったさまざまな人々のことが類推されます。関白藤原兼実や、蓮生となった熊谷次郎直実など身近に居り、藤原定家(同い年)や鴨長明などとの出会いもあったのではと思ったりします。僕がまだ二十代後半の頃、京都竜安寺境内大珠院で盛永宗興老師の許、参禅修行をしていた時、老師を訪ねてくる人の近くで、老師と客との交わす言葉を聞いていたことがあります、法然上人絵詞伝などに描かれている情景と同じです。ある時には現裏千家千宗室がまだ千宗之と言われていたとき、―僕が千氏から名詞を受け、老師に取り次ぎ、―その婚約者三笠宮家二女容子さんと共に老師に挨拶に来たことがありました。その時、僕が抹茶を点ててこの三人にお出ししました。裏千家や公家の人に抹茶を点てるんですよ。老師は千宗室氏(現玄室)と共に大徳寺で禅の修行をした親友でもあったからです。こんな感じで、法然上人と共にいろんな方に会っていたと考えられます。 少なくとも法然は当時有名であり、その弟子聖光ともかなり周りに知られていたことは確かです。この聖光ワールドを研究していかないとと考えています。とはいえ、流氷記のことも気になります。近く何とか‥‥

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