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2010年2月23日 (火)

ギックリ腰で苦しみつつ

 この土曜日にインプラントの手術をしてから、なるたけ体を労るようにしていたのですが、今日はギックリ腰とのダブルパンチ、今までに二回半ほど経験している症状なので、腰を曲げないように気配りながらの一日でした。完全に動けないという程ではないのですが、動くたびに痛くて無理をすると本当に動けなくなるというのを経験として知っているので、こわごわ、びくびくの一日、勤めの帰りに整骨院に行き、マッサージの後に鍼を打ってもらいました。その後すこぶる調子よく、よもや直ったのかとまで思いましたが、その悦びも一時間ほどで、また元の痛みに苦しんでいます。テスト前なのでどうしてもやらねばならぬこともあり、九時頃にもう寝ようとしましたが、寝付かれず、またこのブログに向かっています。
 流氷記も55号で止まっていて、それも気になっています。今日のように眠れなかったりする気患いの大きな原因の一つは明らかに歌を作っていないことです。たぶん、歌人としての僕にとって、歌を作ることが何よりも悦びであり、歌を作っていないことが何よりも患いであるように、究極のところで思います。歌を作ることが全てと言うところまで徹底したいです。
 優美書体を発展させること、そして聖光房弁長鎮西上人についての研究も併せてあるので、つまらない事柄やつまらない人々のことで悩むのは止めるべきです。ところで先日手に入れた岩波書店刊の日本史年表の1238年の所に弁長没との記載がありました。やはり日本史上、聖光上人の存在は大きいのですよね。聖光、弁長、弁阿、鎮西といくつもの名を持つことも一つのマイナス要素なのかも。親鸞も法然もその名でしか語られないのに損だなと思います。彼は運慶の父、康慶の別宅から法然の許に通い、運慶や快慶とも親しかったのではないかと思っています。今までの宗教者はこういう観点からは、聖光については研究しなかったので、とても遣り甲斐のある仕事になります。吉祥寺にある、彼の刻んだ阿弥陀仏は、格調高く、運慶快慶の作品とひけを取りません。
 歌と併せてこれらの研究も続けて、歌もより格調の高いものにしていきたいです。では

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