二つの大きな死(葛西操さん・森繁久弥さん)
もう11月半ば、喪中葉書が届く時期、信じたくないっという気持ちと、ああやっぱりと思う死が二つあった。一つはその喪中葉書で知った葛西操さんの死。娘さんの淑子さんからの知らせであった。
喪中につき新年のご挨拶を申し上げます
母 葛西操 8月28日 99歳にて永眠しました
生前の母は 短歌を嗜み おしゃれで 好奇心が旺盛な 大の巨人フアンで テレビで監督や選手を叱咤激励していましたが 白寿を迎えた直後 お気に入りのシャネルの口紅を塗り娘達に見守られ 黄泉の国へ安らかに旅立ちました
平素のご厚情に深謝し 明年も変わらぬご厚誼のほどよろしくお願いします
みなさまに良い年が訪れますようにお祈りいたします。
という文面、流氷記56号掲載の一首評もいただいたまま、ずっとそのままだったので、流氷記をいつも楽しみに待っている葛西さんのことが気になっていた。葛西さんだけでなく、この娘さんの書かれた文面も何とも温かく人間味に溢れている。90歳をいくつも越えた葛西さんが自筆の原稿でくれるのに、周りの人は不思議がっていた。それだけ流氷記とも深い関わりだったと思う。葛西さんは網走の海岸町に住んでいたので、ずっとあの二つ岩を見続けていたことだろう。あの海岸町から二つ岩までの道。二つに離れた岩が徐々にくっついていって一つになる。三浦綾子文学ツアーの人たちにも、光世さんに向かっても、僕はその道を『陽子の道』と名づけていると言ったことがある。そんな風景の中に住んでいたのだなぁ。
二つめは皆さんの知っている森繁久弥さんの死。96歳の大往生。父がもっともあこがれて大好きだった人。そんな父の方が先に死んでしまったことも、森繁さんの死を現実にすると考えてしまう。彼の『知床旅情』と流氷とがいつも重なっていたので、流氷記や写真集『ふゆいろ』など寄贈して、目に触れてくれるだけでもと、勝手に関わりを決めていた。そんな森繁さんから一度だけ、お葉書をいただいた。もう90歳に近くなっていた頃だ。まだ父も母も生きていたので、とても嬉しく、父を喜ばせたことで少し得意になっていた記憶がある。日常では親孝行はとても出来ないけれど、今から考えると少しだけ出来たのかも知れない。「二十五号落手しました 有難うございます 流氷はそこまでのお手紙で 思い出しております。氷がとけたら 少しおやすみ下さい 大変な御努 力です どうぞ御身
お大事に 久弥」という文面でした。これも僕のお宝です。
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