そこだけにしかない論理
「そこだけにしかない論理」というのは流氷記のテーマの一つだが、この「そこだけにしかない」おかしな「論理」がこの世には充ち満ちている。この時期のメリークリスマスというのも考えてみるとおかしな論理だ。キリスト教徒でもない人々がキリストの誕生日を祝う。仏教徒なのに釈迦の誕生日の4月8日や、教祖の誕生日を特に祝うわけでない。これなんか今年のテーマの漢字の変で妙な事柄の一つなのだろう。僕は喪中葉書を出さない主義であるが、喪というのは儒教の領域ではないか。亡くなって天国に行き、浄土に行くのなら悲しくてもそれをじっと見守るべきだろうし、新しい年の幸いを祈ることを妨げることではないのではと思う。仏の教えは日々の充実にこそあるのだから。僕は年賀状は出すけれども、おめでとうございますとは言わない。自分にとっても相手にとってもいい年でありますようにと祈るだけである。このように、この世は信仰についてだけ考えても無茶苦茶である。この世のこともあの世のこともみんなよく分かっていないだけなのかもしれない。そこだけにしかない論理を振りかざす人々のなかで、まともに返事が出来ない日々の何と多いことか。今日は少々愚痴っぽい口調になった。
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