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2007年6月10日 (日)

暴力的なことなど

世の中は推移するというけれど
 よく昔はこうだったとか、昔は厳しかったのに今は甘すぎるとかいう世間の声がある。しかし本当にそうなんだろうか。
 父は大正14年の生まれなので、相当に古い教育を受けている。昭和の初めで、まだ皆が着物を着ていた時代だ。父の小学校時代の恩師は守部先生だと聞いている。守部先生は体育が専門であったらしい。それでも一切暴力は振るわれなかったという。父の学年にもいじめはあり、いじめの内容はかなりエゲツないもので、一人の弱い生徒を胴上げの形にして一気に落とすといったことも日常的に行われていたらしい。そのいじめの中心であった生徒が後に刑事になったという。そして、そのようないじめに対して、守部先生は「頼むからやめてくれ!」と泣いて頼んだという。守部先生はここ数年前に亡くなり、小学校時代の同窓会はいまだに続いていて、そのいじめの生徒も父と列席しているという。昭和初期、体育教師、それでも暴力的な指導ではなかった。これは父から聞いた事実である。
 体育教師といっても、大学でお世話になり流氷記でもお世話になった近藤英男先生も体育教師であり、今の私の周りでも優れた体育教師はいる。しかし、大方の体育系教師中心のいわば「凄み」を利かせた指導が中心の現状がある。肉体での暴力が無くても、言葉やその凄まじい勢いによる暴力があるのではないか、そんなことを今は憂慮している。先にも書いたように、暴力的なものによるトラウマが不登校や生活基盤の破壊を促進していることの危機を感じているからである。
 このような暴力的な指導の方が手っ取り早く効果的なように見える。生徒もそれで泣き出して反省の姿勢を示すこともある。しかし、それは心からのものではないし、雰囲気に呑まれただけのことである。心からの反省はきっちりと正常の姿勢から発せられるものだと僕は思う。
 教師を段階化して評価をつけていく今の制度の中で、どうしても目に見える形のみが追究される傾向にある。地道な行いよりパフォーマンスの方が注目される。それを見分ける力が管理職にあるのかどうかという彼らの見識や本当の素養や常識力が問われる問題なのであろうが、僕はこのような風潮に疑問を感じている。不登校生徒や弱い立場の生徒の心の中にこの暴力的なものに対する怯えのあることを見逃してはならない。何とかならないものか。教育がこのような形で暴力を促進させるような形をとっては絶対にならないと僕は思い危惧している。

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コメント

先生の気持ちが少し理解出来たような気がします。いつも自分に置き換えて考えてしまうのですが私の恩師の体育教師は人の母で拳骨で軽くコツンという事はしばしばありましたがみんなが大好きで、とてもまとまったクラスでした。きっと心が傷つくような言葉や暴力ではなかったのだと思います。上下関係を子供達にわかられることは大切ですがやってしまったことがいかにいけないことか教えてやって欲しいです。2度と繰り返さないために。母になり虐待のように暴力をふるってきましたが今は話が出来る関係になることが出来ました。暴力をふるうととても手も心も痛くて後悔して・・・繰り返しバカなことをしますが幼いからだと思っています。いっぱい話をしてやって下さい。

投稿: 母 | 2007年6月10日 (日) 22時51分

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