ひねくれ者
僕は生来ひねくれ者なので、皆がこうだと言ったものによく反撥してきました。周りが訳もなく嫌がるものを好きになったり、むきになって皆と違うことをしたりしたこともあります。そういう生来の癖が染みついているのが、創作の基盤になっているようなところがあります。周りが「こんなものは歌にならない」と言うものをそのまま捨てておくという心情になれないのです。思えば
窓ガラス対のガラスを映す昼どこも接していないかなしみ(夭折)
くらやみの空気の部分とじこめてコーヒーカップのさかさまならぶ(夭折)
など、何でもない風景の歌から出発してきました。窓が明けられて対の窓が並んでいるだけの情景。でも向かい合っているときは限りなく近いが、どこも接していないのです。喫茶店に何気なく並んでいる下向きのコーヒーカップも闇を湛えています。こういう発見を大切にしてきました。こういうことはこれからも大切にしていきたいです。
先日、詩人の島田陽子さんとお話ししましたが、その中で嬉しく思うことがありました。島田さんは、旅の詩や歌は作らない。という話をなされ、そういう詩や歌はあまりいいものがない、という主旨の話をしたのですが、それを聞いている僕は、「えっ、島田さんは流氷記50号の旅の歌を採り上げているのに」と思いました。もうすぐ51号を発行しますが、島田さんは一首評で僕の旅の歌を採り上げてくれています。旅行詠というのもつまらないものしか出来ない、いいものは少ないと言われています。今回旅もしましたが、こんなことにも挑戦していきたいです。それだけ、いいものも作らねばならず、緊張もするわけですから。近く51号も出さねばなりません。
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