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2006年11月17日 (金)

匂い

大阪歌人クラブから依頼されて書いていた文章です。新人発言ということですが、まあ、書くのはいいことだと思い引き受けていたものです。匂いという題の文章です。

『匂い』
                      川 添  英 一
 京都竜安寺境内大珠院に参禅の日々を送ったのは二十歳台後半のことである。塔の編集や現代歌人集会の仕事などに疲れ果ててボロボロになって転がり込んだのが切っ掛けだったと思う。週の半分は朝の五時まで禅堂に寝起きしてそこから勤め先に通うという日々で、おかげで参禅も進み、いくつか公案が通過するまでになった。蝋八大接心という、釈迦の悟りの十二月八日まで一週間を日中夜参禅する経験も二度ほど体験した。その体験の中で、五感は鋭くなり、実際に数キロ先の小さな物音までも耳につくようになった。大珠院の傍になる鏡容池の蛙の飛び込む音が聞こえて、芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」を実感したことも驚きの一つだった。そんな修行場から出ることを下山するというが、大珠院を出て河原町を歩くだけで、たまらない人の匂いに閉口していたものである。
 座禅を組んだり参禅したりという生活の中で、逆に世間の仕組みのようなものが分かってきたのだろうという気がする。大珠院には吉兆という料亭の老舗が入り、典座(てんぞ=台所)を司っていて、三年以上は修行する決まりになっていたようで、昆布と塩と椎茸だけの味付けで出されていた単純な料理は、大根や馬鈴薯などの素材の味がそのまま生かされていた。そんな単純な中から味が出てくる、そんな視点で世間を見ることができたようである。殊更に複雑化された世間もほどいてみると案外単純な仕組みによるものであり、河原町で人の匂いに閉口したのも、我々は同じ匂いを共有すると、その相手を匂わなくなるという単純な仕組みによるもので、単純な禅堂での食事により、世間の人の匂いを一時纏わなくなった結果、人の匂いを強く感じただけのことである。確かにペットを飼っている家にはペット特有の匂いがあり、その家族には匂いを感じず、そこに入った他の人には感じるものである。同じく、人にも明確な匂いがあり、皆がそれを共有する限り感じないだけのことである。
 その後、僕は動く禅を求めて網走に住んでいた大東流合気武道宗家を頼って網走での生活を送ったが、武道の取得と共に道東の自然‥摩周湖、屈斜路湖、阿寒、知床そして流氷‥‥に触れ、日本人が北海道を占拠する以前から住んでいた先住民族のウイルタなどとも接することが出来、それらから世間を見ることもできた。大地、人も熊も川も、すべてはカムイつまり神のものであり、日本でもロシアでもない。流氷で繋がってしまう白い大地をトナカイで移動していた彼らの祖先の姿ももう今では語りぐさの中にしかない。
 このような体験を作品の中に消化していくべく個人誌『流氷記』の発行を続けている。常に独自の世界でいようと心掛けてはいるのだが、日々の生活の中で俗にまみれてはそこからはい上がろうともがいてばかりいる。

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コメント

 座禅の方は随分本格的になさっていらっしゃったのですね。小生も若い頃禅書の類が好きでいつも読んでいて、禅寺の出家に対するものすごく強い憧れがありました。家では本などを参考に真似事をよくしていましたが、実際に禅寺へ足を運んだことがないのは、小生がものぐさだからなのだろうと思います。
 最近は仁王禅を提唱していた鈴木正三の「驢鞍橋」を読んでおりますが、小難しくないし日常生活の実際の修行にとても参考になります。初心者は仁王や不動明王の機をもらって眼を据えて座らないと煩悩に負けて修行が進まないというのが専らの主張ですが、先日伊豆韮山の願成就院へ運慶作の阿弥陀如来像、不動明王像、毘沙門天像をわざわざ見に行ってきました。関西は素晴らしい仏像が身近にたくさんあって本当に羨ましいですね。
 小生は社会生活での垢が大夫こびりついてしまっていて、まだまだ感性も戻らないし、何事にも真剣さが欠けているように思います。もっと気を入れて頑張らないといけないと此の頃強く思います。いつも煩悩に負けてばかりいる気がします。川添さんの流氷記の様な偉業は、やはり強い信念と意志力があってはじめてなせるのだと思います。人間自身を磨かないと、結局何もなしえない人生で終ってしまいますから、今は駄目でも一歩ずつきちんと進歩していきたいです。

投稿: 西園寺 | 2006年11月18日 (土) 13時16分

お言葉有り難うございました。禅は盛永宗興老師の許で参禅しました。老師はその後花園大学の学長になり間もなく胃癌で亡くなってしまいました。ですから、公案を一つ持ったままです。それは以前にもブログに書いたことがあります。吉兆の今の当主も小学校の時に座禅に来ましたね。一緒に撮った写真がある筈です。参禅の経験は創作の基盤になることが出来ました。真理の為には三歳の子どもにも頭を下げるが、真理でなければ相手が王様といえど嫌だというような言葉がありましたね。これらも読み返してみる必要がありそう。ああ、勉強することばっかりですね。

投稿: 川添英一 | 2006年11月18日 (土) 17時49分

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