白川静先生
金曜日から九州の父と妹を伴って那智勝浦へ旅行をしました。白浜の南方熊楠記念館・那智の滝(熊野那智大社、青岸渡寺)、瀞峡、熊野本宮、熊野速玉神社と、初めての所ばかりでしたが、みんな大満足でした。父といえば、今日もとても心温まる便りが届きました。十月三十日に亡くなった白川静先生の長女、津崎史さんからの便りです。先日、津崎さんから突然葉書を戴きました。「紅葉の美しいころとなりました。長い間『流氷記』をお送りいただきありがとうございました。一度もお礼を言わぬままに父は逝きました。私は『ハハキギ』誌上にて、感銘歌として紹介させていただいたこともあります。これからもますますのご活躍をお祈りします。とり急ぎ御礼まで」というものでした。僕は、かねてから尊敬し、理想とする白川静先生の御目に触れるだけでもいいと、流氷記を厚かましくも先生宅に送っていたのですが、ただそれだけの気持ちでいたものですから、先生が歌人である津崎さんに送られ、このような形で読まれていることに感銘を受けました。その掲載のものを見たことがなかったので、よかったらコピーして送っていただけないかとご返事差し上げていたものです。今日、流氷記の一首評と共に掲載されたものが送られて来ました。紹介します。とても嬉しいです。
〈わが感銘歌〉
亡くなりてしまえば今はしみじみと耳にも目にも母棲みている 川添英一
『流氷記』という、定期入れぐらいの大きさの歌集がある。八十余首の歌と、一首評からなる個人歌集で、年に五・六冊の割合で出ている。作者川添氏は、中学校の先生で、こよなく流氷を愛し、生徒達を愛し、幅広くものを見、新鮮な感覚のはたらく人である。深い思索あり、社会批評ありで、毎号たのしみに読ませてもらっている。
その川添氏のお母さんが亡くなった。一年前のことだ。そこで作者の母親への慕情がしみじみと詠まれることになる。口語調の、やわらかなしらべの中に、母への思い出が満ちてくる。「独り言なれども母と対話する時間この頃増えてきている」(紫陽母)「幾つもの部屋なる夢の洞窟を出られなくなる母捜すうち」(夢一途)「呆気なく母亡くなりて一枚の遺影に見つめられつつ暮らす」(槌の音)四月に母を亡くしたばかりの私は、作者の哀切な叫びをわが叫びとして読んでいる。 (津崎史・平成一六年十一月号「ハハキギ 」)
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コメント
☆突然に白いぎっくり腰が来る台風情報駆け巡る間に
第50号拝受しました。
拝読しましたが、忙しくて感想をしたためる時間がなかなか取れません。
笑った作。ぎっくり腰です。
わたしも経験ありですので。でも、下句への導入がさすがだと、兜を脱ぎました。
投稿: ひみ子 | 2006年12月23日 (土) 21時39分
コメント有り難う御座いました。ぎっくり腰も終わってしまえば、ごく普通の状態に戻ってしまいます。折角ぎっくり腰になったのだからその感覚を覚えておきたいと思い、歌にしておきました。鍼を打たれた時の感覚など時には快感もあり、なかなか得難い経験でしたよ。一日一日が大切ですからね。コメントいただけるととても嬉しいですね。ホームページも覗いてくださいね。
投稿: 川添英一 | 2006年12月24日 (日) 13時49分
こんにちは,ハッピーです。私は今日朝のニュース番組を見てたら偶然白川静さんを紹介してましたよ。(ほんの少しだけど)
後12月もあと少しですね。年末は夜更かししそうです。おせち料理を作る手伝いとかもありますが,楽しいです。来年は今までよりも忙しくなりそうです。
投稿: ハッピー | 2006年12月26日 (火) 12時30分
年末年始は九州へ帰省します。今年賀状は300部ほど書いて出し終わったところです。中学校の生徒には向こうから来た分だけ出すようにして射るんですが、ハッピーさんの分は書いておきました。僕のは写真も文章も全部自前であることが自慢と言えば自慢です。
では、本年中は色んな人にお世話になりました。帰省中も創作のことばかり考えていると思います。では。
投稿: 川添英一 | 2006年12月28日 (木) 00時12分