善悪の彼方
先ほど西園寺龍之信さんのブログに感想のコメントを入れてから、何かわだかまる、憤りのようなものを感じるものがあったので‥‥
秋葉四郎の「善悪のなきかがやきを放ちつつ赤き日しづむ氷海のはて 」について、僕は物足りないというコメントを出した。勿論彼の師佐藤佐太郎の「みるかぎり起伏をもちて善悪の彼方の砂漠ゆふぐれてゆく」という歌が、頭の中にはあったからである。秋葉の歌は悪い歌ではない。でも、物足りないのである。網走にも住んでいた僕は、こういう光景を目にすることは何度かあったし、佐太郎好きな僕としては「善悪の彼方」という概念も言葉も頭の中にはあった。でも、使わなかったのは、佐太郎のこの歌以上のものにはなり得ぬ葛藤があったからである。やはり「善悪のなきかがやき」では安易すぎると思うのである。
『流氷記』という題の個人誌を出し、歌集を出している以上、流氷にまつわる言葉についても本物でありたいと思う。だから、故本田重一さんや故松田義久さん、また高辻郷子さんや里見純世さんといった歌人、『流氷』観察の第一人者の菊池慶一さん、宇都呂の写真家の赤沢茂蔵さん、また96歳の葛西操さんも網走海岸町に長く在住していた、こういう方の目に触れても、決して恥ずかしくない作品を作りたいと、念願してきたものだ。この辺りは、単なる「旅行詠」でないものでありたいと、常々田中栄とも話をしながら確認してきたものだった。その中で唯一、地元の人が読んでも頷ける作品が佐太郎のものだった。佐太郎のこういう確かな目をこれからも養っていきたい。
現代短歌がどうだというのは、僕の中に全くない観念なので、それは評論家にお任せしたい。周りの評価を気にするという発想も、僕にとってはこういう意味での周りの人達の目を気にするのみ。
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