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2006年9月 2日 (土)

名歌、秀歌考

 田中栄さんが亡くなってから一年半も経つのに、まだ失意の中にいる。ある時には毎日のように電話で話していたので、どうしようもなく話しかけたくなる。たぶん、このブログは、その為にあるのだろう。
 至る所で秀歌、名歌という言葉が氾濫しており、そこを覗いてみても、がっかりするばかり。いくら人が作った言葉だといっても、ちょっと過ぎるよと言いたくなる。思えば、歴史は人が作るというけれども、今ではアメリカの月への有人着陸というのも、虚構であったみたいだし、最近のテレビ番組では明智光秀は死んでいなかったのが事実ではなかったということも語られていた。かように人の作るものは危ういものなのかもしれない。
  田中さんとよく話していたこの、秀歌、名歌ということ。二人で一番好きな万葉集歌人は誰かという話になったとき、それは大伴家持である、ということで一致した。
  うらうらに照れる春日に雲雀揚がり情かなしも一人し思えば
  春の野に霞たなびきうらがなしこの夕かげに鶯啼くも
僕が中学時代に、この二つの歌に触れたときに全身をビリリッと走るものがあった。いまだにその感覚は覚えている。雲雀がツーッと揚がったときに「こころかなしも」と思う感覚。春の野に霞がかかったとき、こころに「うらがなし」という感覚が目覚める。それと同じ感覚を味わったということか。こういう感覚を僕は秀歌や名歌という感じで捉えている。こういうことは田中さんとよく心を共有させたものだ。上に「一人し」とあるが「一人で」とすれば、家持の父、大伴旅人のうた「世の中はむなしきものと知るときしいよよますますかなしかりけり」も「世の中は空しきものと知るときにいよいよますますかなしかりけり」とそのまま、現代の歌、そして現代の感覚そのものになってしまう。このような一貫した感覚を持つ歌を、僕は名歌、秀歌として見つめていきたい。

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