タダゴト
今日の『折々の歌』でどうしても気になることがあったので、ここに記しておく。全文を掲載する。
【皮の付く鶏胸肉(とりむねにく)に青ネギを載せてラップしレンジでチンす 奥村晃作
『スキーは板に乗ってるだけで』(平一七)所収。「ただごと歌」という批評用語がある。タダゴトは「別に何ということもない普通の言葉」と辞書にある通りで、短歌作品をくさす時に使われてきた言葉と言っていい。しかるにこれを逆手にとって、日常生活の諸相をあえてその手法で歌にする人が現れた。右の作者がその人である。何年も前から精力的にその手法で作歌している。短歌史をよく研究している人だ。】
ぼくは「ただごと」を歌うことはいいことだと思うけれど、要は歌い方なのではないかと思う。タダゴトであればあるほど歌は生きてくるのかもしれないから。例を挙げる。
かすかなる痛みの如し傾きて遙かなる街の上のクレーン 高安国世
雨がふり雨がやみ道が走っているそのくり返しに平野が暮れる
この二つの歌は、まさにどこにでもあり、いつでも経験する風景だ。それを自分の中に取り入れて作品化する。ドラマの中の一風景と言ってもよいか。その素材そのものに僕は批判するつもりはない。奥村晃作という名がなかったら、ただのつまらない歌だとしか思えない。僕の鑑賞能力の貧しさかもしれないが、何か違うと思うのだ。僕の作品を挙げる 窓ガラス対のガラスを映す昼 どこも接していないかなしみ
暗闇の空気の部分閉じこめてコーヒーカップの逆さま並ぶ
血管の束を抱きし腕時計机上にありて夕日を浴びる
むしろ何でもない素材ほど扱わねばならぬとさえ思う。でもそれをただ五七五七七にするだけでは作品とは言えないのではないか。少なくとも僕はこのように考えて生きてきたしこれからも変わらないと思う。高安先生に惹かれたのもそこなのだったから。
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コメント
件の奥村作品についての、「奥村晃作という名がなかったら、ただのつまらない歌だとしか思えない」というご感想には、全く同感です。この作品は、川添さんともあろうお方が、「僕の鑑賞能力の貧しさかもしれないが」などと謙遜して仰る必要などさらさらに無い駄作、いや、短歌以前の雑語の羅列とさえ私は思っておりますが、いかがでしょうか。
大岡信の『折々の歌』もそろそろネタ切れで、再開以後は、選ばれた<歌>と言い、その評言と言い、鑑賞に耐えません。<末期症状>という言葉は、かかる現象を指して言うのでしょうか。
彼は、一昨年の歌会始で、<寄人>に選ばれたあたりで筆を折るべき人だったのだと、私は思います。
それは別として、川添さんの作品中の「窓ガラス対のガラスを映す昼 どこも接していないかなしみ」には感服致しました。
川越さんの、「塔」への、一年限りの限定付きのカムバックは、私のような部外者の目には、悪戯めいた気まぐれめいた、極めて奇妙な現象と映りましたが、それも、どこにも「接していないかなしみ」の為せるわざと理解すれば、納得の行くことでした。
投稿: G | 2006年4月20日 (木) 14時33分
誰も僕のブログなど読んでいないのでは、と思っていたので嬉しいです。僕はただいい物を作っていきたいと思っているだけで、マスコミに好まれる作品とのズレを常に感じていました。このように率直に読んでいただいている言葉に触れることは嬉しいです。ありがとう。
投稿: 川添英一 | 2006年4月20日 (木) 22時42分