桜自作十首
桜もほぼ散りつつある今、まとめてみました、桜の自作十首です。読者のお口に合うのかどうか。
次々に桜の枝より放たれて花びら集まるひとところあり
花びらとなるため土や水たちの無数の出会いの上歩みゆく
山桜しきり散りつつ雷の光るとき時止まる花びら
雪解けの冷たき水を飲みて咲く桜花びら星のごと降る
帯となり川となりして花びらは空へと向かう満天の星
誰ひとり通らぬ坂道滑走し夜を羽ばたく桜花あり
花びらはしきり降りつつ夜の広場桜木銀河のごとくに浮かぶ
花びらの敷石伝い逢いに行くそこには君が待っているはず
黎明の意識かすかに聞こえくる桜の花びら叩く雨音
桜花波立ちながら海中(わたなか)の憂いに沈み我が歩みゆく
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コメント
御作十首、心に沁みて拝読仕りました。それぞれ佳作であり、力作でありますが、私の好みから選ばせていただきますと、次の三首でしょうか。
○次々に桜の枝より放たれて花びら集まるひとところあり
○誰ひとり通らぬ坂道滑走し夜を羽ばたく桜花あり
○花びらの敷石伝い逢いに行くそこには君が待っているはず
〔一首目〕<咲く>ことの緊張感から解放された桜の花びらが、枝から放たれた後、誰誘うとも無く<ひとところ>に集まって、土に還る前のひとときを、お互いの体温と残香とで癒やし合っている。
慈眼の歌人・川越さんらしい優しさに満ちあふれた着眼であり、詠風である。
〔二首目〕<咲く>という苦役から解放された桜の花びらが、「誰ひとり通らぬ」夜の「坂道」で「滑走し」「羽ばた」いている。
散り終えた桜の花びらに、これほどの慈しみの視線を向けた人を、私は、川越さん以外に存じ上げません。
〔三首目〕作中主体=作者が、「花びらの敷石伝い逢いに行く」「そこ」とは<黄泉の国>。「そこ」に「待っているはず」の「君」とは、今となっては彼の国の住人となってしまった人々。即ち、田中榮氏であり、本田重一氏でありましょうか。
「そこ」が<此岸>であり、「君」が<女性>であるとしたら、早晩還暦を迎える作者の煩悩は深い。好漢自重せよ。
投稿: G | 2006年4月21日 (金) 11時23分
川添様
高槻は葉桜ですか。当地は、いよいよ開花という段になった昨日、大雪が降って、元の木阿弥となりました。 G
投稿: G | 2006年4月21日 (金) 11時43分
ご丁寧な読み、恐縮しています。脳の若返りの為には「恋」をすることが大切だと、先日テレビでやっていましたが、残念ながら、そういう感情そのものを喪失しています。Rさんに批判されても恋する人がいるのならば、貫いていきたいのですが、悲しいほどにありませんね。今、歌が作れなくなっているのは、この、恋心の喪失なのかもしれない、などと独り悩んでおります。はい。
投稿: 川添英一 | 2006年4月23日 (日) 23時12分