本田重一の歌
塔三月号掲載のものです。
本田重一さんの歌
本田さんが八月九日に亡くなったことを知ったのは、それから四九日目だった。網走歌人会の人の便りで知ったのである。その死の後にすぐ奥さんから私の家に電話があったのだが、生憎私は九州に帰省中であった。親子のように接していた田中榮の死への悲しみがまだ癒えていなかっただけに、何とも言えぬ喪失感があった。流氷記四七号(惜一期)でその追悼の意を表したが、まだ癒えないままである。
本田さんとの出合いは、僕の流氷記五号(冬菊号)に平成10年十一月号の彼の歌を見出して紹介したことに始まる。
コンバインとよもしてゆく北見野のはてに遠山低く連なる
十トンの小麦を踏みてハンドルを切ればじわりと重心移る
『私の選んだ短歌』という項にこの歌を載せた流氷記を本田さんに送ったのである。僕も網走にいたので、この情景がまざまざと浮かび、こんな歌は僕の以前にいた網走歌人会にもなかったのでびっくりした旨を伝えたと思う。本田さんからも直ぐに便りが来て、翌十一年二月には女満別で本田さんと会うことになる。僕の生涯の上でも彼との、それから数年の年に二、三日の出会いほど密度が濃くて楽しい出会いはなかった。能取岬に行き、それからウトロまで行く。ウトロまで行けない時は途中の知布泊の喫茶店まで。その間に彼の車の中で途絶えることなく、色々なことを話す。作品への情熱。歌壇などへの欲などさらさら無く、流氷のこと、作物のこと、風景のことなど話す。僕の「斜里岳の雪の形を見て決める種蒔き時あり土ほぐれゆく」という歌は、彼からの話から出来たもの。まるで盗んだみたいでごめんなさいというと、文庫にもあるように、一首評を書いてくれて、自分の気持ちを代弁してくれたと喜んでくれた。 運命の出会いというものがある。田中榮と共に、この人との出会いがなければ、流氷記の世界もなかっただろう。
私の母が亡くなる年が、彼と雪景色と流氷を巡った最後になった。知布泊までしか行けなかったが、数年のうちにもそうはないという美しい夕焼けに出会った。流氷の上に沈む鋸のような夕日である。その喫茶店で本田さんが急に「川添さん、もうお世話出来なくなるかもしれません。手術することになるので」とポツリと言った。えっ、手術?いや、たいしたことはないんですが…そんな会話が今でも耳に残っている。美しい夕日、流氷が積もり積もった迫力ある海、そして最後の日には彼の畑の傍の美しい白樺林(流氷記46号表紙写真)をも見せてくれた。夢のような三日間だったが、それも何かの予兆だったのか。
生まれたる処すなはち死場所にて冬は雪降り流氷が来る
流氷の岬に佇てば風蒼く荒涼千里の彼方より吹く
純粋で何の傲りもなく歌も彼の心そのものである。彼のことを思うたびに涙が流れてしまうのだ。僕は北海道の歌人も少しは知っているが、その自然を詠った歌人で彼を凌ぐものはそういないと思っている。それ程の人なのに塔では彼の最後の歌記載の十月号からずっと彼について触れる者はなかった。編集後記で自分の実績ばかり言う者はあるけれども。 思えば、僕はこの原稿を書くためにだけ再入会したのかもしれない。本田重一、そして、その歌を皆さん、忘れないで欲しい。
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コメント
「本田重一歌集」を「ゆったりと編集中です」とのこと、本当にご苦労様です。川添さんと本田氏とは深い縁で繋がれていることですから、本田氏の遺歌集を川添さんが編集されるのは当然のことです。また、亡き本田氏やご遺族の方々も、川添さん編集の遺歌集が刊行されたら、どんなにか喜ばれることでしょう。
それはそうですが、歌集のスタイルが「流氷記そのまま」というのはいかがなものでしょうか。内容がすばらしいだけに、もっと多くの方々のお目にとまり易いような出版方式は考えられないでしょうか。
例えば、川添さん編集・解説の上、客寄せハンダのN氏筆の帯付きで、「塔叢書」の一冊として刊行するとか。
「塔」は、本田氏に対しても川越さんに対しても、それくらいの仁義を尽くすべきだろうと、私は思います。本田重一遺歌集の「帯」や「褌」を創るくらいの義理は、宮廷歌人のN氏といえども感じているはずです。
後、数ヶ月で川越さんが「塔」から身を引かれる。その頃になって、みすぼらしい装丁の本田重一遺歌集が刊行される。しかし、歌壇からもマスコミからも少しも反応がない。これでは、本田重一氏の霊も浮かばれません。
何卒、宜しくご配慮下さい。
投稿: G | 2006年4月 3日 (月) 15時09分
いつも有り難うございます。ただ、ちょっと、いや、随分違うと思います。僕は個人誌流氷記の形がみすぼらしいとは思いませんし、実際にきちんとプロ並みのものを作っております。だから色んな方から御批評など戴いているのです。田中栄とも塔には負けていないつもりと話していました。歌壇やマスコミから注目されることなど本田さんは期待も希望もしていません。この営為そのものでいいのです。どうしてNの力など借りるなければいけないんですか。Nにそんな気があるのなら編集後記や雑記などにとうに書いている筈。その機会があるものと当初は思っていましたがね。帯付きや高価な歌集を出して誰がお金を払うのですか。そういう過程については申し上げたつもりです。みすぼらしい歌集などは作りませんよ。個人誌を実際に見て貰ったら僕の言いたいことは分かるのですがね。はい。
投稿: 川添英一 | 2006年4月 3日 (月) 21時39分
ちょっと感情的になりすぎたかと気になりました。ごめんなさいね。本田重一歌集はまだまだですが、夏になる前には出したいですね。その時には塔には歌集紹介(表紙裏の)をしてもらうつもりではいますよ。
マスコミに乗ることや賞を期待して歌集を出すのは愚かだとつくづく思います。要はいいものを精一杯の形で出せるかどうかですね。頑張っていきたいです。Rさん、失礼があったらお許し下さいね。
投稿: 川添英一 | 2006年4月 3日 (月) 22時37分