年賀状で思うこと
もう1月も初旬が終わろうとしている。年賀状も350枚程手許にある。年賀状は日頃親交を深めている人には更なる親しみと励ましを、また、昨年中に心ならずも失礼をしてしまった人にはそれ失礼を詫びるいい機会である。歌集など上梓された方には分かると思うが自分が何年も何十年も心を傾けて作ったものを送る。どきどきしながら、時めきながら。それが封も切らずに無視されたのでは。ぼくは最低でも葉書でそのお礼を述べたつもりだし、数首を引いて簡単な感想を書いて送ったりはしているつもりだが、時々それが漏れたりすると、非常に気になる。そんな時には賀状で謝ったりする。そんなことにも使える。勿論、無視の儘だとかこちらが丁寧な返事をしたのに、こちらの歌集など平気で無視する輩も多い。ぼくにとっては流氷記の送付先を決めるのにも参考にする。紙を折ってくれていた上埜さんが倒れたり、職場が変わってプリンターが劣悪になったりして、自分でカラーレーザープリンターを購入したり自分で全て紙折り等をしなければならなくなった関係から、43号まで650部出していた流氷記も44号から350部にしたときも、年賀状も参考にした。まさに心の状態が年賀状で知れる。高安先生は、塔の会員の賀状には必ず返事をしていたものだが。先日のCMでは後出しされたことへの怒りが表現されていた。後出しと遅出しでは違う。後出しは、相手が出したから出しましたというもの。「年賀状早々ありがとう」など添えられているのはそれ。相手が格下や生徒さんなどであれば、それでいい。なぜなら、特定の人だけに出す訳にいかない立場であるからである。もちろん、先に出すのは構わないけど。遅出しはただ遅く出しただけ。期間中であれば遅くても別に構わない。慎重で確かな原稿をぎりぎりに出す作者のようなものだから。そんな配慮の出来る人が今はあんまりいなくなったような気がするんですがね。そんな人の作っている誌でないとね。
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コメント
川添さんともあろうお人が、たかが年賀葉書ぐらいのことで、「後出し」だとか「遅出し」だとかと馬鹿馬鹿しい。ガキ共のジャンケンみたいだね。歳を一つ食ったのだから、その分、成長しなければ。
投稿: G | 2006年1月 9日 (月) 11時34分
やっと反応ありました。ぼくにとってはたかが年賀葉書ではないだけのことで。一つ一つの葉書でも心を込めて書いてるつもり。たかがではありませんし成長とも違うもの。ぼくのたかがにその人が関わることも多いと思う。ぼくは一つ一つの便りのようなものから創作に関わっていくのは大切だと思います。夏目漱石や志賀直哉などの葉書の貴重さなどそう思います。たかが一歌集などの響きが今の歌壇の響きなんだろうけれどね。ともあれ反応があったのは嬉しいです。ありがとうね。
投稿: 川添英一 | 2006年1月 9日 (月) 19時25分